小さい頃、僕の家の居間には、青空に雲が浮かんでいて、真ん中からすこし左に一本の線が縦に描かれた絵が飾ってありました。
大きい紙に、子供がクレヨンで描いた何の変哲もない絵が、大切そうに高価な額におさめられて、居間の隅を彩っていました。
桃子は、戦後間もない山梨県のとある片田舎に吝嗇家で頑固者の父と働き者で控えめ母の間に4人姉妹の次女として生まれました。
桃子の家は山の中の小さな集落にありました。家の裏手には畑があり、家族は畑仕事して自給自足したり、採れたものを物々交換をしたりして暮らしていました。たまに町に買い物に行く時などは、何日も前からお気に入りの洋服を家族中で用意したりして、姉妹にとってはとても楽しみな行事でした。
ある日、小学生だった桃子は、その後の人生を大きく変える出来事に遭遇しました。近所に住んでいた、小さい頃からとても可愛がってくれたおキクお姉さんの結婚式です。
当時の田舎はTVなんてないですから、桃子はお嫁さんというものを見た事がありません。幼い妹を連れて、そのお嫁さんになるお姉さんを見に行きました。なんでも町にお嫁に行くのだそうです。
そしてお姉さんの家の庭につき、そこから見たものは、
まっ白なドレスに身を包み お姫様のように髪を巻いた
なんとも神々しい姿に変身したお姉さんでした
その日から、片田舎に育った、運動音痴の桃子は
「私は絶対に髪結いになる!」
と固く心に誓い、事実、中学を卒業すると縁者を慕って埼玉県の熊谷市に出てきました。
熊谷の美容師さんのお店で下働きをするうちに、父の縁者で秩父にすむ、とある婦人にいたく気に入られ、父の独断でその方の元で働く事になりました。田舎からその日の為に出て来た父と二人、熊谷から秩父に移動する電車の中で、桃子は幼い頃からの口癖である「私は田舎が大きらい」というセリフを何度も泣きながら父に浴びせました。
元来無口の父は口をつぐんで、ただただ車窓から、娘がお世話になる地への風景を眺めておりました。
わずかな年月で多くのお客さんを得た桃子は、お礼奉公を経て自らの店を開業しました。その頃、後に夫となる博史と出会いました。ただただ忙しいばかりで生活も経済的にも逼迫した状況の中で、休みの日には東京に連れ出してくれる博史との時間は桃子に安らぎを与えました。ただ、紳士的な一面、どこかボンボンで博打好きな博史は、度々職を変え、やがて桃子の収入に頼る事も増えてきました。
やがて桃子は博史との間に子を授かりました。
温厚で周囲からの信頼も厚かった博史の父は、桃子を痛く気に入り、放蕩者の博史をしては「桃子がかわいそうだ、桃子がかわいそうだ」と、姑として厳しく当ろうとする博史の母から桃子をかばい続けました。
そんな中、初孫を授かった桃子の父は、山梨の片田舎から着慣れない一張羅を羽織り、少ない蓄えを持って、病身の身体に鞭を打って博史の父に挨拶に秩父へ赴きました。
一通りの畏まった挨拶がすむと、お互いの父同士は朝まで語らいました。単身家を出て、どこか後ろめたさを感じていた桃子は、この頑固者の父が優しい義父を前に珍しく胸襟を開けて顔をほころばせているのを見て、何とも言えない嬉しさにお腹の子を何度も何度も撫でました。
ゆっくりしていってほしいという義父の嘆願を「初孫の顔を見る為にも戻って仕事をしなければなりませんので」と言って辞し、駅まで見送った桃子に袱紗に入った包みを差し出しました。
「こんなことしかできんが、これで鯉のぼりを買いなさい。」
桃子にとっては何にも代え難いお祝いでした。
「来年の節句にはまた来てくれる?」
秋風に襟を立てながら聞く桃子に、父は1月の出産までは仕事よりも十分身体を大切にしろと言い残して電車に乗りました。
年が開けてすぐに桃子は元気な男の子を出産しました。
電話で山梨の実家にその旨を伝え、「純一」という名前に決めた事を告げると、父は
「そうか。純一か。純一か。」
と何度も初孫の名前を呟きました。
それからしばらくして、端午の節句を前に、桃子の父は亡くなりました。
博史は桃子の父の形見になるであろう、純一の鯉のぼりを、
その為の金を、当時にしては大金を、すべて株で擦りました。
小さい頃、僕の家の玄関には、大きな水槽があって、日曜日になると父が大きなバケツに中の金魚を移して、藻の張った水槽をバシャバシャと洗っては、また元の水槽に金魚を移していました。
幼稚園で画用紙で小さな鯉のぼりを作った日、僕は母に
「何でウチには鯉のぼりがないの?」
と聞きました。母は、
「あら?いいのがあるじゃない。コレを飾ろうよ。」
と僕の作った鯉のぼりを持って言ったので、僕はすごい不満でその鯉のぼりをビリビリに破いて泣きました。
翌日、
幼稚園から家に戻った僕は、いつもと違う玄関の水槽を見ました。
水槽と同じくらいの大きさのあの居間にあったの空の絵が
壁と水槽の間に挟むように立てかけてありました。
金魚が空を泳いでいました。
小学校から帰ってきた長兄の純一は僕に
「あれ、いいだろ?」
と笑いながら言いました。